ぱーこシティ(令和版)

18年続いて来たぱーこシティは、ついに元の場所に還ることをやめました。

初日記

王子駅

 今日の一句   今年75毎日が初日記  浮浪雀

 土曜日だが新年の紙面でbeなし。youtubeのニホン賛歌番組を見ていたら、8歳の天才少女バイオリニストの動画があった。HIMARIという名前で出ている。カルメン・パガニーニ・四季、夏・チャイコフスキーいずれも音の際立ちすさまじく決然と始まる迷いのない響きにビックりしてあれこれ動画を見てしまった。小学生の時は慶応幼稚舎で12歳にして今はカナダの音楽院?に在籍。もう半ば思春期に入っている彼女のインタビューはやはり違った世界の住民の言葉だった。しかし8歳当時の画像はある種の完成された人格を感じさせる。半眼の目で集中する彼女の表情は仏像に通じるものがあった。少年もボーイズソプラノの時代にある種の完成を見るが、少女も思春期に入る手前で恐るべき完成を見せる。いやこれは彼女のような天才だけでなく、私の仕事先である学童保育でもそうである。小学校高学年の少女に見られる完成した人格。

 その後でお犬様ホテルの掃除。床もぞうきんがけから始まってスチームモップできれいにするので、大掃除になる。カーテンも洗うので庭同様の年中行事(夏・冬)でお犬様のおかげである。2時間ほどかかった。午後はおみくじを求めて地元を離れてみるか、と思ってみたが片付けで疲れて、夏にお犬様ホテルの謝礼として娘から来たウナギの冷凍をたべることにした。この冬の業務のお礼として次の浜松ウナギが来るはずだ。その前に片付けておかないとならない。

 それで昼寝して午後は60年来の旧友のお誘いで出身地である北区まで進軍する。googleで調べるとコースは神田まで中央線で行ってそこから京浜東北線で北上する。自宅から所要1時間である。指定されたダイニング居酒屋に行くと彼はまだ来ていなかった。予約の席について、携帯など見ていると店の人が、先にやってますか?という。そこでおすすめのつまみ生セット650円を頼む。オクラと突き出しとマグロ刺身のあてに生中と書いてあったが、これは生小であまり飲まない私としては好都合。しばらくして出身中学で同じ学年のKが、学年が2年下の女子Tちゃんを連れてやってきた。我々は中学で同じクラブ活動をしていた関係で集まったのである。その部活の顧問が昨年10月になくなった。ガンである。この部活関係の付き合いは卒業後も断続的に続いていて、特に定年後は年に一度この顧問の先生の熱海別荘にあつまって同窓会を開いていた。

 Kと私は団塊の世代の最後で、出身中学は3期生、Kは工業高専の2期生、と人口が爆発した団塊の世代の成長に伴って次々と作られる社会インフラに乗ってきた。出身中学は10年ほど前に廃校になりもう一つの中学と合併した。名前は残っている。工業高専は航空高専と合併し他の工業系の教育期間となった。高専を卒業したKは島耕作のいる初芝に入社して、半導体技術ではその道のエキスパートになった。初芝製のTVには彼の開発した半導体がいくつも使われている。話を聞くと初芝では海外展開の技術部門の広報をまとめていたという。そのつながりで後期高齢者(学年は私と同じだが、生まれが昭和23年なので)になっても、コンサル業務でニホンのあちこちをかけずり回っているという。初芝の女子行員の玉の輿攻撃をかいくぐってKは独身を通した。

 コロナ騒ぎが起きる前に一度、やはり王子で飲んだことがある。そのときは地元の彼の友人が一緒だった。私は工業高校の同窓会(G3会)流れだったので短時間だった。それ以来なので、時間をかけて話すのは60年ぶりと言っていい。彼の話を聞いていると、戦後日本の大企業に入ると、人生に必要な物はほとんどすべて手に入るという感じだった。かれは仕事の関係で世界を飛び回りニホンでも一流の所に出入りした。例えば接待で銀座の高級料亭に行って中国料理を堪能した。一人3万円ほど取られたが、その店の中国の本店では同じ料理が10分の一の値段で食べられた。

 中学を卒業した時、彼と私は工業高専の電子科を受験した。倍率は40倍だった。彼は合格し、私は不合格で地元の工業高校へ進学した。合格発表の日、鮫洲校舎の掲示板にはゆきがちらついてきた。私が不合格だったので40倍の難関を突破しても彼は喜ぶわけに行かず、かえりは秋葉原で途中下車してアキハバラデパートでホットケーキを食べた。二人とも押し黙ってホットケーキを食べた。

 彼と私は中学では問題児でつまりはおとなしく学校の言うことを聞けないが成績がほどほどいいので厳しく処分するわけにも行かず、その処置に手を焼いていた生徒であった。彼は父を亡くしていたし私は母が寝たきりでいわば家庭的に不遇であった。その不満を外に出していたのである。

 たとえば毛虫事件。当時の校長は理科の先生だった。桜の季節が終わるとアメリカシロヒトリの幼虫が桜の木をびっしりと埋め尽くす。これは食べられるのか?と疑問を抱いた探究心旺盛な生徒(私だ)が校長室に聞きにいった。先生あの毛虫は食べられますか?すると校長は、食べられます、と答えたのだ。校長のお墨付きが出たので私とKはボール箱の中に毛虫を集めフライパンにバター入れてバター焼きにした。それに砂糖をまぶし食べたのである。いわゆるゲテモノ食いであるが熱は通しているので感染症にはならない。Kは作るだけ作って口にしなかったが、私ともう一人の問題児Tが食べた。味は葉っぱの味がした。これは当然のことだった。考えればすぐにわかることだが見た目にだまされて毛虫の中身がはっぱだということに考えが及ばかったのだ。

 3期生の生徒会役員に私とKが立候補した。Kは書記、私は会計だった。会長のMが360票、私が一票差で得票数が多かった。Kは言う。そのときの書記のUは中央大学を出て弁護士なったが、クライアントの金を着服して捕まった。新聞に出ていた、というのである。そうか、あいつはガリ勉のむっつりスケベだったからな。当時2年下にテニス部の美少女がいた。私とKはUをはめようとこの美少女の名前をかたってラブレターを書いてUの机の中に入れたのだ。土曜日の午後1時に滝野川病院の入り口の花壇で待っているから来てください、と。そして私たちはそのときに石川病院の生け垣に隠れて見張っているとUはやってきてあたりをキョロキョロと見回し、いつまでたっても彼女が現れないので、怪訝そうに立ち去っていった。

 私とKは彼の家でコーラを飲みながら試験前だけ勉強した。問題集の中でこれは出る、と神がかりになったKが言ったところを覚えるのである。あるときの全校模試でKは1位になり、私はそのときは14位だった。試験科目は英数国理社保健体育技術家庭音楽美術と9科目の試験である。50番まで名前が張り出される。1学年は7クラスあったので350人ほどが母集団。つまり我々は真面目な生徒ではないがそこそこ試験の成績はよかったときがあるのだ。それも山勘という方法で。私の人生訓は当時はやっていた植木等の歌にある、人生で大切なことは、タイミングにC調に無責任、コツコツやるやつはご苦労さん!という物であった。

 そのほかに四方山話がありあのころはよかった、いまではパワハラセクハラでわれわれは生きていけない、と深くうなずき合ったのだ。Kの家の周りで生き残っていた同年代は皆死んだ。この部活のメンバーでももう3人ほどが鬼籍に入っている。顧問の先生はこの前なくなった。つまりは生き残っているというのは知り合いがどんどん消えて行くということなのだった。部活のマスコット嬢だったTちゃんも7年前にガンをやっていまは放射線治療中という。7年生き延びればそれで十分じゃないか。

 この店で3時間、仕上げにコーヒーをプロントのナイトタイムで飲んで解散した。ダイニング居酒屋はつまみにあれこれ頼んで9400円。Kが支払い、私はKのいうままに4千円渡した。プロントはTちゃんが550×3人分支払った。次回はかねて言われている六本木のオールディズをやっている店で、またKの家ですき焼きをやろうと言うことになった。いつ実現するかわからないがともかく先の約束があるだけでなんとか生きていけるのだ。

 21時過ぎに撤収。自宅には10時過ぎに帰宅した。