毛布

八重洲北口

 今日の一句 妻の言う毛布変えたよ早く寝よ 浮浪雀

 今日の三択。「朝駆けの駄賃」意味は? 簡単・寝坊・ぼけ これはあまりにも見えすいた引っ掛けか。そんなの朝飯前だ、に似た語感だね。

 ネット関連。

 今日は11時半に東京駅八重洲北口付近の蕎麦屋に行く。K先生との会食である。K先生は私と6つ違いだから81歳のはずだ。名誉教授になったあとは一切の社会的な活動もせずに千葉県の奥の方に隠居している。体調のこともあったと思う。6年前に狭心症の発作を起こし病院で見てもらったらその場で手術になった。一度別のことで見てもらった時、病院に半身麻痺を起こした老人とかがたくさんいた。ああいうふうになって人に迷惑かけるのは嫌だ、と思って病院に行くことにした。発作が起きた時、これは大変胸が苦しい、左側の肩の後ろも痛む(これは若いときにラグビーで痛めた古傷だ)、だけどこれしきの頃ことで人をわずらせるのは嫌だから我慢していた。すると妻が来て、なんか変だ、何やっているの?というから少し少し痛む、というとぐずぐずしないで病院に行きなさい!と言われた。

 地下一階の蕎麦屋はチェーン店である。和食居酒屋の個室で開店そうそうすぐに満席になった。あとは以前研究会で知己を得た教員関係の知人が2人。この二人がこの会を設定し、なぜか私に声をかけたのだ。過去ログを検索すると10年前の記録があったので、引用する。過去ログはもう普通では見られない状態になっている。

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 2014年11月30日(日)

年に4回の研究会
いちおう読書会の形式をとっているが、
それにかこつけて、言いたいこといい
それを良く聞くという会である。

著者直々に登城して、あの時はこうだった、とか
今は、こう思っているとか、思うところを語ってくださる。
この大先生はネットを検索してもでてこない。
著名な方は実名で検索をかけると
大抵はamazonの書籍コーナーに出てくるのだが
わずかに一冊、この研究会でやっている本がでてくるだけだ。
そのほかは同性同名の人がひっかかる。

この時代にまったく稀有の存在
ネット時代の仙人である。
先生を待望する声は大変多い。
それを固辞して隠遁生活に入られてはや10年
私は研究生時代に先生にお世話になった。
居場所のない私に研究生の立場を与えてくれた。
いきなりお願いに言った私に対して、
なんの事情も聞かず、うっと黙って
いいですよ、のお言葉だった。

自分が指導教官になるのだから、
研究計画とか問題意識とか聞くのが習わしである。
文書で出せ、というのも当然だろう。
そういう機会は当然、あらかじめ用意された日程があり
そこで予備調査の上で行われる。
そうしたもろもろの段階をすべてすっとばして
私はいきなり先生の研究室をノックしたのだ。

私の勤務校の神父様が
お説教の途中で、いきなり黙ることがある。
1000人近い聴衆の前でしかもミサの途中にだ。
はじめはシーンとしていた会場も小さなざわめきが聞こえるようになる。
突然の異常事態が生じたのではないか。
説教の区切りの沈黙にしてはあまりに長すぎる。
だが聴衆の中には、例のアレが始まった、と思って
まあしばらく待ってみるか、という空気も感じられる。
それでざわめきはそう大きくならない。
中断した説教は唐突に始まる。
話の流れもまったく関係ない。
それが始まると、それまでの沈黙が全くなかったことになってしまう。
技といえばワザである。
私はミッションのコンテクストに則って
これは精霊が降りてくるのを待っているんだ、と解釈した。
敬虔な信者の方にそう話してみたら、その方はニヤリとしてうなずいた。

その時の大先生の沈黙には
この神父様の沈黙と同じ印象がある。

私が先生の研究室のドアを叩いたのが
1987年だから、27年前となる。
初めて先生の講義を聞いたのは30年前だ。

その時の印象を忘れることはできない。
学部3年向けの心理テストの概論の講義だった。
学部3年というのは、その専攻分野の基礎教養的な内容が多い。
いずれは狭く深く自分の専攻をあつかうことになるが、
その前にその分野の一般教養的な知見をつけておこう、という目的で開講される。
新書などで扱われる網羅的な内容である。

80人程度入る中教室(157教室)の廊下側の入り口から
ぬっと先生はいきなり登場し、教室を舐め回すように見た。
孤独な亀が頭だけ突き出してあたりを用心深く伺っているようだった。
それから教壇につくと、落ち着いた低い声でイントロダクションを始めた。

講義の内容は、毎回心理テストを持参して、それを受講生に体験させ、そのテストの評価を綿密に伝える、というものだった。いやしくも他人をテストする者はまず自分で受けてみて評価されるという経験が必要だ、そう考えておられるようだった。この至極まっとうで良質な講義の内容と初めの印象が私の中で解決されなければならない謎となって残った。謎はもうひとつあった。講義の途中でときおりみせる笑顔である。破顔一笑、やんちゃ小僧がもううれしくてたまらない、という表情を見せるのだ。先生のファンの多くはこの笑顔にやられるてるんだと思う。自分のしたいたずらが成功して、もうたまらないという表情である。

先生の最終講義の冒頭に、私の教員生活の多くは自分の劣勢機能を使って過ごしてきた、と話された。自分に向かないことをやって教員生活を過ごしてしまった。もっと自分にあったやりたいことがあったのにそれはついに果たせずに教員生活を終えることになった、そう言っていると思われた。驚愕のお言葉である。これだけの実績がありその下で多くの優秀なお弟子さんが育ち、圧倒的な人気があるのにいっさい表舞台に登場しない。本来あと数年教授でいられるのに、後進に道を譲ると言われてさっさと退職、名誉教授としていくらでも他大学に移れるのに、そのまま隠遁してそれまでの関係を絶ってしまった。

その謎はいつも気になっていた。先生が直々来られる研究会があるが、と知らされて私はこの会に参加した。この会を企画したのは多くは教員として先生に関わった人たちが迷惑も顧みず(と私には思われた)先生を引っ張り出したのである。それが2年前。先生は、もう勘弁してくれよ、と言いながら自分の著作を振り返るのもまんざら悪くないな、と思っておられるようだった。その第9回目の研究会。

私は始め単なる聴衆だったが、そのうち世話人を頼まれ事故や病気で世話人のなかで思うように業務が遂行できない事情が生じて、今度は事務局のようなことをやることになった。残っている世話人の陣容を見ると、まあこの仕事が自分に降りかかってくるのは仕方ないかな、と思ってはいる。いつものパターンである。

夢はいのちの叫びである。
私はいのちという言葉が(使われているのを)嫌だったが、もう歳をとってくると、そういう言葉で考えている自分もいる。ユンギャンのように、夢がどんな意味なのかをその人とじっくりさがしていくというのは意味あることじゃないかと思えてきた。
先生はそういうことをやりたかったのか。そういえば、先生の最終講義は子どものプレイセラピーで箱庭がでてくるファンタジーの凄まじいものだった。私は当時ファンタジーどころではなかったので、その内容に集中できなかった。答えはすでにでていたのだ。私が気づかなかっただけなのだ。

そのほかにも、えー、という衝撃の事実もさりげなく話されて私は大変満足した。ここにはとても書くことができない。

諸般の事情で、今回参加者が少なく、いつもは取ることができない参加者の発言時間も十分取れた。有意義な会だった。私は事務引き継ぎ資料を受け取り、とりあえずため息をついているところである。

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 10年前はこんなに書く気力があったのだ。我ながらびっくりだ。今日の話の一部を記録しておく。

 先生が大学を卒業するときになんだか就職する気がしない。なにかうまい手はないかと考えていたら、大学院という方法があると友人から聞いた。先生は高校時代からいろいろと思い悩むことがあり、精神分析に関心があったようである。大学はICU.これも英語だけはやって、他の科目はほとんどできなかったので、試験科目が英語と面接だけなので受験した。面接で高校時代の自分の悩みをは話した。それまで誰にも話したことはなかった。試験官の先生は黙って聞いていて、先生の話が終わったあとで今は話したことを英語で言って見て、と言われた。これにはまいった。それでもなんとか英語で話して、合格した。この試験官の先生に拾われたようなものだ。助かった。

 ところで今、この先生が卒業した都立高校のこの年度の東大の合格者数は117名でランキング第2位である。先生は超進学校の落第生なのだった。私はこういうエピソードが大好きだ。

 そこで大学院に行くことになったが、先生の関心分野は東大と京大にしかない。それで東大の大学院を受験した。語学が2科目なのでドイツ語をにわか仕込みでやって合格する。ICUの先生にその話をすると、分析は東大ではできないので、と言って紹介状を2通書いてくれた。宛先の名前はよく知らなかった。それで紹介状の宛先の大学に行くと、相手は迷惑そうな顔をして玄関払いをされそうだった。そこで紹介状を見せると相手の態度がにわかに変わって、教授室のドアを開け中に招き入れ、話を聞いてくれた。最後に私的な研究会のことを教えてくれた。もう一人もまったくおなじ反応で、紹介状を見せた途端に態度が豹変した。ほんとに驚いた。というのである。

 この宛先の2人は土居健郎と小此木啓吾である。この有名人を知らなかったというのは、話を少し盛っていないか、と思って調べてみた。土居健郎の「甘えの構造」は1971年であり、小此木啓吾の「モラトリアム人間の時代」は1978年である。K先生が大学を卒業したのは1965年のはずであるから、しらなかっとしてもおかしくない。このエピソードも初めて人に話したことらしい。店の昼営業の閉店時間14:30までいて、追い出されるように撤収した。

 といった話が満載で、記録しておかないとすぐに忘れてしまうが、まあ致し方ない。明日も早いので今日はもう寝る。