ぱーこシティ(令和版)

18年続いて来たぱーこシティは、ついに元の場所に還ることをやめました。

煤湯(すすゆ)

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今日の一句   ランキング煤湯に浸かって聞くラジオ  浮浪雀

 朝の夢。自分は学会に出ている。会場は縦に長く各階ごとにテーマが違う。自分が聞きたい分野は随分と高い階でやっている。エレベーターは工事現場のゴンドラタイプでワイヤーが括り付けてあるカゴでドアも天井もない。そのゴンドラで22階へ行くともう会は終わっていて会場は暗くなっている。今年もせわしなく動き回っただけでなんの成果も出なかった。随分と落胆して下へ降りていくと7階で止まった。後ろで声がする。やっと会えた。振り返ると3年前に別れた女が笑顔で自分の右手を女の両手で包むようにして握る。手を預けたまま自分はなんだか彼女全体を感じてずいぶんとこの感覚は久しぶりだ、まったく忘れていた、とおもったとこで目が覚めた。右手には女に握られた感触がまだ残っている。

 今日の三択。タンスの言葉の由来。荷物・段差・素早い踊り。これは仏教用語で荷物のこと。江戸中期から使われている。芸能三択は思い出せない。この朝のルーティンは記憶力保持のためにやっているが、効果の程は定かでない。ただ思い出せにことを思い出そうとする努力に自己効能感が維持される感じがする。

 やっと仕事から解放されたが、今日から8日間お犬様がやってくることになっている。そのため別邸をペットホテル仕様にしないといけない。まずは狭い庭をきれいにしておかないと庭を外トイレに使われたときにこまる。そのまま室内に入ってくるからだ。もっともその辺はペットホテル仕様なので適当。いなくなってから床はきれいにするので、まあ年に二度の大掃除のきっかけになる。

 柿の枯葉と庭の物置を大掃除する。物置にはまだ入っている塗料や肥料や使えると思っているものがそのまま置いてある。一つ一つ出して点検すると、ほとんどが固まっていて使えない。結局こういったものは使い切って、使うときに購入した方が無駄がない。思いきって処分する。

 午前中だけで終わらず、中断して午後もやることになった。昨夜のおでんの残りとうどんを食べて昼寝を少しして、暗くなるまで片付けの続きをやった。接着剤や塗料缶がたくさん出てきた。物置のドアはCRCで潤滑させる。外も水拭きすると見違えるようにきれいになった。正月は神様がやってくるというからたまにはこういうところも拭いておかないといけない。

 燃えないゴミなので捨て方を確認してから処分することになる。枯葉や枯れ枝は燃やしたいところだが、ものを燃やすのは禁止されているようで面白くない。狭い庭の四方は隣家の塀に囲まれて外からは見えないところだ。3年前にこの狭いに庭でバーベキューをやった。キャンプ用の鉄板コンロを購入したが結局そのとき1回使っただけだった。その時買った炭もまだ残っている。今度は七輪を買って小規模に焼き肉などやってみるか。

 片付けは、この前思い浮かんだ方式でやる。ともかく今あるものを半分捨てる。伊勢神宮は20年ごとに遷宮する。その方式で、本棚なら半分は空間を空けておいて毎年入れ替える。そうすればいざとなった時残り半分を処理すればいい。今回は使えると思って1年以上手をつけなかったものをごっそり処分するつもりである。今年の11月に晩年に付き合ってきた諸々が次々と終わりを迎えた。向こうからやってくるように使えなくなった。これは変化の年である。できるときにやっておかなければならないと自然に思えてきたのでここ10数年やろうと思っていたことに着手できると思う。

 自分が死ぬことはよくわからない。死んで仕舞えばなにもわからないから考えるだけ無駄だ、と思ってはみるが実感がない。自分が親しんだ有名人がどんどんなくなっていく。自分の友人・知人も死んでいく。その時あまり悲しくない。ああ逝ったかと思うだけである。しばらくたてば時間はいつものように流れる。今の家族は妻一人なので、妻が先に死んだら、これは日常生活でけっこう堪えると思う。毎日見ているTVの番組がなくなる程度ではすなまい。具体的な生活でいくつか不便が生じる。もっとも妻の実家は小笠原なので、母親が生きていた時は年に何度か2、3週間家を開けることがあった。そんな時でも私は同じように日常生活を送っていた。だから短時間なら大丈夫。むしろ解放感がある。しかしもう帰ってこない、となるとどうか。

 つまり知っている人が死んだときのショックは今の生活が戻ることなく変わっていく、というところにある。知っている人間がしんだだけでそういうショックを受けるなら、自分が死んだ時はどうか。まだ認知症といえるほどボケていないので、一番自分が知っている人間は自分である。四六時中意識して付き合ってきた人間がもういなくなって帰ってこない。そのとき受けるダメージはどうか。それが自分が死んだとき受けるダメージである。それを怖いと感じるのか不安と感じるのか。そうすると自分が死ぬ時はわからなくなっているから大丈夫とは言えない部分がある。生きている自分が一番親しんだ人間の自分が消えてしまうことの感情が残るからだ。とまあ、そんなことを考えた。