芋南瓜(かぼちゃ)

拡散

今日の一句    芋南瓜揚げて仕舞えばみな同じ 浮浪雀

 今日の三択。ドリア誕生のきっかけは? 故郷を懐かしむ・体調不良の客に・ぼけ 横浜のホテルでの話。逃げ恥の残りを出勤前に見る。2日で11話み終わった。そしたら、続きの特別版があった。主演の2人は結婚してしまうんだから、子供の成長に合わせてシリーズ化したら、北の国からみたいにできないか。

 望月教授はこの逃げ恥が提出した問題を、マクロとミクロの問題であり、その2つに通路つけて問題を解決する方法を提起した、それは私が宇宙際タイヒミュラー理論で示した方法論と同じである。「契約結婚」=「仮想的満額回答の設定」=「Θリンク」という結論を出すに至るのである。っさすが学者だね。宇宙際タイヒミュラー理論については、まだよくわからないので、この比喩が直接的に「Θリンク」を示しているかどうか不明であるが、TVドラマをみてその中に自分の理論と同じ構造を見てこのドラマの問題意識は自分の理論(数学の理論である)の問題意識とおなじである、と考えるところが学者である。

 逃げ恥はまずTVドラマとして上出来で、タイトルの入れ方とか、最後の恋ダンスとか、ドラマの随所にその頃はやっているドラマや番組のコピーをそのまま持ってきて解説的内容に使ってしまうという演出までしてのける。望月教授はマクロとミクロ、という比較を持ってきたが、私はマスコミやジャーナリズムのいうことは3人称の言説(マクロ)であり、それは私の身近に直接起こることと同じ捉え方では理解できず、むしろ逆の意味を持っていることがおおい、と思っている。最近のポリコレのしばりなどはまさにこれで、自分では当たり前のことがまったく許されなくなっているように思える。

 逃げ恥の問題提起は、個人の主観的主張を尊重するあまり、社会関係が機能しなくなってきたことを端的に表していて、それを、結びつけるものが経済的な金勘定しかない、という主張でそれが契約結婚である。新垣結衣のみくりは、プロポーズされて釈然としないもやもやを愛情の搾取だとマルクス主義の労働関係で解釈しようとするが、それなどはそのいい例である。

 もちろん原作とそれをドラマ化する脚本家の手腕だが、俳優がうまくはまっているのが成功した理由とも思える。主題歌を作っている星野源の演技もすばらしく、初めの頃の拗らせ童貞(35年間彼女なし)の表情がすばらしく、後に行くに従って笑顔に余裕が出てくるあたりもよいです。新垣結衣の寝顔が映るシーンを見ると何の特徴もない、ただ若い女の顔というだけで、つくづく顔は感情の容れ物だと思った。この造形がやはり新垣結衣を女優にしているのだ。この素材に役者が感情を流し込むのだ。

 まあ珍しく語ってみたくなるのだったが、昨年はウヨンウにはまっていたので、夏休みらしいと言えばそう言える。

 キッズ業務。懸念事項がなんとか先が見えてきた感じ。さすが神様の学校である。こちらでばたばた動かなくてもちゃんと準備された事柄が向こうからやってくる。おおっと神がかりかかってきましたね。

 間違い探しクイズをネットでさがしてやってもらったら1年生がはまって1個もの2個もの3個もの5個ものを作ってくれ、とのご注文である。なんで4個ものがないんだろう。

 あとは巡業公演のネタを作ればいちおうの気がかりはなくなる。これもだんだん方針が見えてきた。