今日の一句 ミソサザイ冷やし中華のうまい店 浮浪雀
今日は早く行く日。昨日3時ごろまでネトフリ見ていたので、5時頃目が覚めたが、もう少し寝ていて6時前には朝食。結局7時前に家を出る。8時前に着いて、今日はテスト返却。テストに関しては、いろいろ注文が来るだろう思っていた。採点ミスはクラスで二人ぐらい。単純な見落としである。実は右目が見えないので、片目で画面を見ながらやっていると盲点が生じる。これは本当の視覚の盲点。これは丁重に訂正させていただく。
次は文章題の採点に関する疑問。二つの事項を述べないと○がつかない問題。一つだけ書いて、あっているからなんとかしてくれ、という注文。まあ、これは間違っていないけど、完全な正解ではない。そして他の人もそこは×にしている。つまり公平さの妥当性で押し切る。自分の答案しか見ていないので、この公平さの観点を当人は持ちにくい。
今日一番の難題は、顕微鏡の発明者は授業であつかっていなかったのに問題がでた。他の先生はプリントで教えていてそこに書いてあった。私の授業ではここは強調されていない。なんとかなりませんか。答えを書いてないから点をつけるわけにはいかない。私の担当した他のクラスも同じ事情だが、そのことを言いにきた生徒はいない。これも公平性の原則で押し切る。しかし教えたかたの違いで生徒に不利が出るのは避けたい。なので、ここは今後私の授業でも同じプリント使用するから許してくれ、というと相手は引き下がった。
次は同じ内容だが、ある女子が先生相談ですが、と言って、他のクラスがプリントでやっていてそこから出題されているので、同じ授業で教え方が違うのはおかしいと思います、という。これ相談ではなく、疑問と要望である。試験の前日も準備室に来て、他の女子が私たちは浸透圧のことを聞いていないけど、他のクラスはやっているので試験に出ますか?と言いに来た。プリントを配って授業をしている1級教員の先生が、そこは出さない、と言明してこの質問は終わりになった。先生はすでに作ってあった問題を変更して(ということはもう一度刷りなおしたんだ)その部分は外して試験にした。
私にしてみれば、教科書の範囲を守って、ついでに演習問題の基本をやってね、と教材の進行管理をしているので外から見たら文句はつけられない。もっとも教える範囲というのも学校によって違う。生徒が勝手に勉強していく超進学校だと教員は自分の趣味で勝手に教材を選んで自分のスタイルで授業をしていても、生徒はZ会やら他の現役予備校で入試範囲はやるので、教える範囲が違う、とか文句は出ない。そんな記事を読んだことがある。その次のランクの進学校がいわゆる受験対応をして進度を上げて授業をしていると思う。私の現在の異世界勤務校はこのランクである。中学高校の教員は教科書にある範囲を教えるのが仕事で、自分で教えることを決められるのは大学の先生である。もっとも、教科書「で」教えるんだ、と主義者の先生もいた。
この学校へ呼んでくれた恩人の管理職の先生は「ともかく生徒がいいのよ!」と連呼していたが、ことここに至って私はなんだかモヤモヤしている。先生相談ですが、と言って、同じ授業で教えることが違うのは変だと思います!と主張した女子を思い浮かべる。彼女に対して悪意はないが、理不尽な目に遭ってこなかったかもしれない、と思ってしまう。小さな守られている世界の真理が絶対の真理、という印象である。先生のいうことなんかあてにしてどうする!と言いたい気分もある。男子にはそういう気概を感じる時があるが、身の回りの小さな正義こそが自分のよって立つ基盤、と信じているのは女子が多かった。いい気なモンだ、とまでいう気はないし、苦労知らずの純粋さにはある種惹かれるところもあるが、所詮は異世界の妖精さんだ。耳は三角でとがってなくていい。
同室の先生にそのことを報告して、使っているプリントを私に回してもらうように頼んで、撤収する。
帰宅後、残ったサンクチュアリを見て夕寝。サンクチュアリはこれから始まる、というところで終わる、あるあるパターンで終わった。評判がよければ続編をつくろうというハリウッド商売。描写の質もハリウッド調だった。